Archive for Indonesia

年寄りライブと映画

 一週間前の停電事件(『災難2連発~停電と歯痛~』参照)に始まり、先週一週間は「日々是災難」の毎日だった。日本でも、昔は一つ電化製品が壊れると、次々に壊れるなんてことがあったけれど、まさに我が家は今そんな感じ。うちでは裏の井戸水をいったん屋根の上のタンクに汲み上げ、そこからそれぞれの蛇口に水がいくようになっている。タンクの水が減ったら自動的に井戸のポンプが作動して汲み上げる仕組み。この自動装置が壊れた。だから気づいたら水がなかった。とはいえ、これは簡単に直せる。自動装置は買い換えないともうダメだけど、当面はマニュアル、タンクいっぱいになったらポンプを切ればイイ。
 次に自動車のACが壊れた。最近は国際交流基金の大型展覧会『KITA!!』の準備で毎日走り回っている。ここんとこジョグジャの天気は昼間にムチャクチャに暑くなり、次にジメジメに湿気が出てきて夕方からドバ~~~っと豪雨というフルコース。そんな中、街中を移動するのにACなしは蒸し風呂状態。さらに雨となったらもうフロントガラスは視界ゼロとなる。でも豪雨だから窓も開けられない。ほとんど決死のドライブ。この前も、熱風しか出ない車内で脱水状態寸前のところで、車を降りたら外の方が全然涼しかったなんてことがあった。
 さらに歯茎の痛いのはまだまだ続いている。せめて、せめて、豪雨の後の冷えた夜に、温水シャワーで身体を温めたい・・・と思った私のささやかな望みも、連続する災難によって阻まれた。今度は温水器が壊れてお湯が出なくなってしまった・・・。

 運の悪いことに、インドネシアでは20日がイスラム今日の祝日、21日がキリスト教の祝日、そして22~23日は終末と、ほとんどが4連休になっている。店は開いていない。だから湯沸かし器を買った店も、明日まで営業していないのだ。
 もう、こうなったらじたばたしても始まらない。お湯がなくても死なん!歯茎が痛くても死なん!そう腹をくくることにした。もともと数年前までは湯沸し器も持ってなくて、寒い日にだけ大きな鍋にお湯を沸かして、それを水で薄めて使ってたんだから、そこへ戻ったと思えばいいだけ。でも人間ってどんどん快適さに慣れると、それが当然になっちゃうからいかんな・・・。

 少し前向き思考になった金曜の夕方、ティアスから久しぶりに電話があった。ティアスは過去にジョグジャやジャカルタで一世風靡したロックバンドのギタリスト。今は当時のバンドを解散し、ジョグジャ北部に小さな飲食店を建て、そこで週末ライブなどをしている。互いにローリングストーンズ大好きということもあり、機会があれば一緒にライブをしている仲間だ。私にとってはギターの師匠でもある。
「ミドリ~、今日はボーカルいないからさ~、来てよ。ギター持って」
と久しぶりにお声がかかったからには、歯茎が痛くても行くしかない。お湯を沸かして水で薄めて行水してから出かけた。

live1.jpg

 彼が今やってるバンドのメンバーは知らない人たちばかりだった。見た目かなりのオッサン(右のギターがティアス)ばかりだけど、こういう世代の方が渋い音が出せるから私の好みだ。
「ミドリから適当に始めたらついてくからさ・・・」
ストーンズのナンバーから20曲ほど演れば、皆さんちゃんとついてきてくれる。さすがストーンズ世代、すべての歌が頭に入ってるんだな・・・と嬉しくなる。せっかくのライブなのに歯茎のせいでアルコールが飲めないのが残念ではあった。だってティアスは酒作りもうまくて、オリジナルカクテルはなかなか美味いのだ。次回はぜひ、歯茎も完璧な状態で美味しい酒と一緒にライブしたいものだ。

 連休中に街中に出るのは好きじゃない。ジョグジャってのはとかくローカル客に人気の街だから、連休の人ごみと交通渋滞ったら半端じゃない。多分日本の京都みたいなものなんだろう。だから姉妹都市提携してるんだろか? またもやDVDを借りてきた。
23.jpg◆Number 23(2007)
珍しくジム・キャリーがサスペンス・ホラーに主演。ブラピの『SEVEN』を思い出させる雰囲気もあったりしたけど、なかなか面白かった。こういう結末だったとは。

rogue.jpg◆ROGUE(2007)
ジェットリーと「トランスポーター」のジェイソン・ステイサム主演。日本のヤクザがいっぱい登場。こういうのに、松田優作が生きていたら・・・とつくづく思う。石橋凌じゃ~悪いけど役不足な気がする。それと、日本人だって見るんだから、ちゃんとした日本語喋って欲しいよな。いい加減すぎじゃん、日本語のセリフもセットも・・・。

flawless.jpg◆FLAWLESS(2007)
同タイトルでロバートデニーロの映画もあったみたいだけど、こっちはデミ・ムーアの宝石泥棒モノ。昔のロンドンの町の雰囲気や衣装が楽しめた。内容は最後の種明かし部分がちょっとおもしろいけど、間は今ひとつ力入らず。

holluwood.jpg◆Hollywood Land (2006)
1950年代にアメリカで大人気だったTV番組『SUPERMAN』の主役、ジョージ=リーヴスという俳優の謎の死(実話)を題材にした映画。『JACKET』や『PIANO』のエイドリアン・ブロディが演じる探偵は実在ではないらしいけど、映画の中では一番目立ってたような・・・。この役者もかなり個性的でいいなぁ。
こういう解決してない実話のミステリー系では、『BLACK DAHLIA』が私は好きだったな。

Leave a Comment

2冊のガイドブックとカリ・チョデ

 あっという間にもう3月。日本もそろそろ春の気配が訪れはじめている頃だろうか。
 先月、最終原稿完成のためにスラバヤを訪れ、ジョグジャに戻ってすべてを編集し終わり、ようやく印刷に回すことができた。フルカラー70ページの豪華ガイドブックが3月中旬には完成する。きっと担当したスラバヤ市観光局のユサクおじさん感動するだろうなぁ・・・

srby.jpg

 何を思って「スパークリング・スラバヤ」というのか知らんが、このハジける感じに合った写真がスラバヤの夜景だったので、これをカバーにすることにした。

 内容はスラバヤへのアクセスにはじまり、歴史、文化、自然、考古遺跡、ショッピング、食事、ホテルなどのコンテンツに分けた。思い切り私の好みがページ割りに現れていて、食事のページが多い、多い・・・。

buku.jpg

 今回はこの原稿と一緒に、もともと私が数年来つくっているジョグジャの日本語ガイドブック『JOGJA SURFING』の3~4月号も仕上げた。これは2年前からジョジャカルタ市観光局公認となり、印刷費もジョグジャから出て、インドネシア国内にある15の日本人会や日本企業への配布もジョグジャ政府もちで計らってくれていたのに、今年からは予算ゼロ。国交樹立50周年で秋篠宮殿下まで訪問しているっていう記念すべき年に、なんで予算がない?!
 確かにもとはといえば、私が自腹で刊行していたものを、ジョグジャが認めてサポートしてくれてたわけで、振り出しに戻ったといえばそうなんだけれど、私も昔のように若くない。予算がないならもうやめればいいや・・・と思っていたときに、国際交流基金主催の友好年記念事業、ジャパニーズ・アーティスト・ミート・インドネシア『KITA!!』展に関わることになった。そしてディレクターである東京本部のFさんから、この展覧会をどうやってジョグジャでPRしていったらいいのか相談を受けたのだった。

kita.jpg

 そこで今回、『KITA!!』展のPRを掲載する、つまりジョグジャ・サーフィン側からすれば広告掲載料が入ることにより、3~4月号発行が実現した。こっちはあさってには刷り上ってくるんだった。
 日本でジョグジャ・サーフィン希望の方は、五反田の在日インドネシア大使館でどうぞ。

code.jpg

 昨日はカリ・チョデを回ってきた。「カリ」はインドネシア語の川。つまりチョデ川。
 上述の『KITA!!』展には日本人アーティスト20組57名が参加する。数組は展覧会開催の1ヶ月前にジョグジャに入り、現地制作をすることになっている。中の一組が淀川テクニック。男性二人組のユニットで、川のゴミを集めて巨大オブジェを作ったりしている。2年前の釜山ビエンナーレで彼らの作品を生で見て、ゴミがここまでのものになるのかと感動したことを覚えている。
 そんな彼らが、ジョグジャの川でも制作することになったのだ。ユニットの一人柴田君はすでに一度ジョグジャに視察に来ている。そのときに紹介したチョデ川上流に、彼の気に入る場所があったのだけれど、今度彼が制作のためにやってくる前に、もっといい場所があるかも・・・と思って、チョデ川の下流を探索してみた。

codebawah.jpg

 結構あるある。
 彼らのプランの詳細を知らないので、どの場所が最適なのか、私にはわからないけれど、単純に川を含むその場所の空気として、気持ちのイイ場所があった。
 にしても、この雨季、本当にいつ降り出すかわからないから困る。チョデ川の下流で2ポイント見つけて撮影していたら、2ポイント目でいきなりの雨。やむをえず撮影を中止して帰宅した。

 昔はもっと雨季は雨季、乾季は乾季ってはっきりしてたような・・・。これも温暖化なのか・・・

Leave a Comment

南風食堂のジョグジャ視察

 「南風食堂」、いかにもインドネシアにぴったりな名前。
 実はこれ、もう9年も活動している女性2人のユニット。美術館やギャラリーでの展覧会オープニングのケータリングの活動の他に、おいしい食べ物のレシピ本も出版している。
 先日は怪しいコレクター(本人がじゃなく、コレクションしてるものが「怪しい」)の都築響一さんがいらっしゃり、2日あけて今度は南風食堂の三原寛子さんがやってきた。彼女も今年4月に開催される『KITA!』展(国際交流基金)の参加者だ。
bookcover.jpgbook.jpg
 まずは打ち合わせのために宿へお出迎えし、最初にただいた本が『スープの本』。
 蜂が旅する物語形式になっていて、蜂が旅する場所でのスープが物語のように現れて、しゃれたレイアウトの中にレシピもちゃんと載っている。毎日一皿ずつ、試してみたい本当に美味しそうなメニューがいっぱい。むっちゃ嬉しい!

 彼女は今度の展覧会で、インドネシアのみんなに南風食堂オリジナル・メニューを振舞いたいとのこと。今日のアテンドでは会場の下見、食材のチェック、さらにインドネシアではどっこにでもある屋台のチェックをすることになった。そしてもちろん、その合間合間には、インドネシアの美味しいものを食べる!これれっきとした仕事。
 
 メイン会場となるジョグジャ・ナショナル・ミュージアムに行く。なかなか立派な建物に三原さんも感動。ここの食堂のジャワ田舎料理もなかなか美味しいので、オバちゃんに頼んでメニューの撮影もさせてもらった。私が
「この人はね~、日本で有名な料理職人なのよ。ジャワ料理も興味あるんだよ」
と説明すると、
「ほらほら、タダだから、つついてってごらん」
と太っ腹な発言。

bucher.jpg

 ここからジョグジャ市民の台所、ローカルで最大の市場ブリンハルジョへ。なんせインドネシアはスパイスや漢方の宝庫だから、三原さんも見たことない謎の品々にウキウキし始めている。椰子砂糖を半キロ買ってみたり、ジャムー(ジャワの漢方)をグラス1杯飲んでみたり、私も大好きな食べ歩きはすでに始まった。展覧会になったら彼女は実際に料理を作るわけなので、食材だけではなく、調理道具のチェックも怠らない。こっち風の料理の仕方なんかも、市場に入ればいろいろ見ることができるからいい。

brobak.jpg

 彼女が今度オーダーしたいと言ってる屋台。これにはサイズや売っているもの、仕様によって「カキリマ」と呼ばれるものから「グロバッ」と呼ばれるものまである。希望を聞いていると、どうやら大きめで火も使うことのできる「グロバッ」を想像しているようだ。
 こっちには「グロバッ屋さん」というものはなく、大工さんが作る。それほどみんなの頭の中には、カキリマやグロバツの構造が、フツーに入ってるってことだ。私もざっとの構造を描けといわれれば描けるけど、見えない部分でどうなってるのかとか知りたくて、三原さんと一緒に屋台が通ると写真を撮った。後は彼女がいったん日本に帰り、どんな仕様でどんなサイズにしたいかなど、詳細を決めてくることでミッション終了。

 ランチにはジョグジャ名物のグドゥッを、そして夜はスンダ名物のペペス・アヤムを食べた。考えてみたら、ここんとこずっと自炊で、さらにダイエットのため夕飯には野菜スティックしか食べてなかった。昼も夜も美味しいもの食べるなんてこと、ずっとしてなかったので幸せ~~。なんたって「仕事だから」という言い訳もあるし(自分自身に対して)。

pepes.jpg

 これは三原さんも大絶賛のペペス・アヤム。香りのよくなるハーブの刻んだものを鶏肉に添え、バナナの葉っぱで包んで蒸したもの。とにかくジューシーで、鶏は骨まで食べられちゃうくらい柔らかい。これには生野菜できゅうり、キャベツとクマンギというバジルに似た爽やか系ハーブがついてくる。これとペペス、さらにサンバル(唐辛子ペースト)のコンビネーションが絶妙なのだ。
 私は美味しいものを食べたときに、「本当に幸せ~~~」と思う。健康だから食べ物が美味しいんだし、口も腹も満たされる美味しいものを食べれば本当に美味しい。その生き物として基本的にもってる幸福の部分を仕事にしてる南風食堂っていいな~~~。

 短いジョグジャ視察ではあったけれど、できるだけたくさんの美味しいものを紹介したくて、翌日のランチには私の大好きなバリ料理、バビ・グリン屋へお連れした。ジョグジャじゃ~めったに食べられないバリの味だ。しばらく行ってなかったので、私も仲間がいてラッキーだった。ここでも三原さん大喜び。
 こうして2日間のアテンドを終え、三原さんも日本へ帰ってしまった。美味しいもの食べ歩く友達がいなくなって、ちょっと寂しい。でも彼女は4月の展覧会の準備で3月末には再度ジョグジャ入りする。そして3週間くらいは滞在する。またここで美味しいもの巡りできるのが楽しみだ。それまでは、体重増加しないように、しっかりビリー隊長について消費のいい身体つくりして待つとしよう。

Leave a Comment

ジョグジャ・ビエンナーレ終幕ライブ

今回ジョグジャに戻ってきて、ギリギリ「ジョグジャカルタ・ビエンナーレ」に間に合った。今回で9回目となるジョグジャのビエンナーレは、毎回必ずいろんな問題が起こって、企画したキュレーターもアーティストもどこかしこで友達をなくすというイベントになっている。
 今年のビエンナーレは、ちょうど私の帰国に重なっていたので、内情をリアルタイムで知ることはできなかったけれど、噂好きの私のところには、黙っていてもいろんな話が入ってくるからおもしろい。今年の一番の問題は、お金欲しさにキュレーターが「売れる」作品を作っているアーティストばかりを選考し、挙句の果てにはビエンナーレ出品作品をオークションにかけてコレクターに売り、何パーセントかを自分たちで分けようって話にまで発展してたそうで、結局そのアイデアは参加作家サイドからも大ブーイングだったために流れたらしい。

 そんなお騒がせビエンナーレも今日で幕を閉じた。
 最近のジョグジャ・アート・シーンは音楽と抱き合わせのイベントが多い。アーティスト自身がバンドを持っているというケースも若手にはたくさんあって、自分の展覧会のオープニングに自分のバンドが演奏することもよくある。中には、作品の質の悪さを無理やり音楽で隠してるんじゃないかと思われるような場合すらある。
 
 そして今日の閉幕式。3会場を使ったビエンナーレの幕を閉じるライブは、ジョグジャの国立芸術院(ISI)の旧校舎、今は改装してジョグジャ・ナショナル・ミュージアムとなったその場所の広場で行われた。ここは今年4月、日イ国交樹立50周年記念の事業として、国際交流基金が開催する『KITA!』展の会場にもなる場所だ。私はその事業に現地スタッフとして関わっているので、そっちの視点からも、今日の閉幕式には興味があった。

11.jpg

 始まりは午後3時とあったけれど、私が着いたのは午後8時過ぎ。てっきり、もう来てる人の大半が泥酔状態かと想像してたけれど、意外にもまだあまり盛り上がってない様子。敷地中央にある大きな菩提樹の木の下に3つのテント型ステージが設置され、バンドの演奏が始まっている。

21.jpg

 日本でもそうかもしれないが、ジョグジャの展覧会というのは、日ごろ会えない友達に一気にまとめて会える機会、そして噂収集できる場でもある。特に私は今回3ヶ月のブランクを空けての公の場だったので、懐かしい人がたくさん。中でもかなり久しぶりにあったのがリカ。こうしてみると日本人にもみえる彼女は中華系インドネシア人。数年前には私の家に半年ほど居候していたテキスタイル系の作家。

 そうこうしているうちに、ジョグジャの芸術院出身者(現役もいる)で作っているバンドの登場。インドネシアの大衆音楽ダンドゥットを彼らなりにアレンジしたオリジナルの曲は、芸大生ほかジョグジャのアーティストに絶大な人気。このあたりになると、ようやくステージ前に出て踊り出す輩も出てきた。私は久しぶりのジョグジャの空気に触れ、すでにビール大瓶3本目に突入。

campur.jpg

 どんどんライブは佳境にはいり、カメラを持つ私の手もブレる。
 踊りながら、ふと気づけば、今日はスハルトのお葬式。今頃、インドネシアを思うがままに操ってきたあの独裁者の亡骸は、ジョグジャの隣町ソロへ運ばれているだろう。そんなことお構いなしに、私の目の前ではジョグジャの若きアーティストたちが、群れになって踊り興じている。すごいコントラスト。そういえば、ほんのちょっと前には秋篠宮夫妻がジョグジャを訪問していたんだっけ。秋篠宮夫妻が帰国したと同時にスハルト昇天ってことか。これも不思議なタイミング。

 12時もとっくに回っているのに、ジョグジャ・ミュージアムの広場にはまだたくさんの酔っ払いが残って、今日びジョグジャで流行のDJの回す音にあわせて身体を動かしている。老体は明日が怖いので、ここらで引き上げることにした。

tita.jpg

 駐車場に向かう途中、敷地内の集会所を使ったティタルビー(Titarubi、インドネシアの有名なアーティストAgus Swageの妻。シンガポールビエンナーレには夫婦で共同作品を出品)の作品を見た。3日前、昼間に見たときには照明がOFFだったのでわからなかったけれど、なるほど、夜はキレイだった。これらも明日にはすべて撤去される。

Leave a Comment

東からのEメール

 新しい年が来たので、あの中部ジャワ地震は2年前のことになった。あの時、私がふとしたきっかけで始めてしまった救援活動を一番支えてくれたのが、東幹久に似たチャハヨだった。あの時以来、私は彼をこのブログ内で「東(アズマ)」と呼んでいるので、てっきり私が日本人青年と活動していると思っていた人もいた。
 地震がきっかけで、あんなに仕事のできる責任感の強いインドネシア人と知り合えたのは私の最大の収穫だったと今も思っている。現在愛知県美術館展示室6で開催中の私の個展『交換プロジェクト’07~アジアの記憶~』で上映しているドキュメントビデオの日本語字幕も、彼が手伝ってくれたものだ。

 昨日、彼からメールがきた。ボランティア精神の塊のような彼は、今回もやっぱり、大雨で被災しているソロにいた。以下、彼からのメールの内容をそのまま訳して今日の日記とする。写真も彼のメールに添付されたもの。

1.jpg

「ハロー。新年おめでとう、ミドリ。
この新しい年が、僕たちみんなに成功をもたらしてくれるように…
大晦日の夜、ジョグジャでは雨は降らなかったらしいよ。僕はまだソロにいるから、これは友達の話だけどね。ソロじゃあまだ洪水と土砂崩れの毎日だよ。

2.jpg

ミドリ、インドネシア人ってのは、本当に恥知らずだと思うよ。大晦日の夜、ソロの街じゃあ若いヤツらでいっぱいでね、でもそのほんの100メートル先の村では、洪水で住む家も食べ物も失った犠牲者たちがいっぱいいて、寝る場所すらないんだよ。考えてごらんよ、そんな人たちを見たら、ドンチャン騒ぎなんてできないはずだよね。

3.jpg

ミドリ、救援物資もそれなりに入ってきてはいるよ。ただ、君も知ってるように、なんてったってインドネシア政府のやることだから、いまだに災害から何も学んでないな~って思うよ。住居がすべて崩壊して、すべての道具類も壊れてしまっているんだよ、なのにインスタント麺を救援して、いったい何を使って調理するっていうんだよ?おかしいだろ?
だから、今僕らの仲間で、犠牲者には簡単な台所用具と大工道具を救援物資として運ぶようにしているんだ。もしもミドリの日本の友達が、またこの活動を手伝ってくれるっていうなら、それはとても嬉しいよ。でも君のブログを読んだ人が、ここの犠牲者たちのことを想って祈ってくれるだけでも僕らボランティアは元気が出るよ。

4.jpg

去年の暮れに、ミドリんちの近くを通ったよ。家の前もキレイになってたよ。家の前のワルン(屋台)でお茶してたら、嬉しいことに家の中からティルム(私の飼っている犬)の泣き声も聞こえたよ。元気そうだったから嬉しかったよ、ハハハ…
今日はそんなところかな。日本での展覧会、成功するように祈ってるよ。早くインドネシアに戻っておいで。そうだ、何枚か写真を添付するよ。もしブログでアップしたかったら自由に使ってくれていいよ。
ありがとう。

チャハヨ」

Leave a Comment

骨盤ダイエットとジャワ洪水

 日本に帰ってる間にいろいろ気になることをしておこうと思っている。その中の一つが骨盤ダイエット。名古屋にあるビューティサロンが体験コース70分2,000円というので早速予約した。まさかその後の勧誘がしつこいとイヤなので2,000円ポッキリかも何度も確認しておいた。まぁ、勧誘されたところで、私は日本にいないんだから向こうも諦めるだろうけど。

 まずはざっとのコース内容説明があって、下着の状態で採寸。胸周り、腹、尻、二の腕、太もも、ふくらはぎをチェック。前後ろ横からの写真(顔なし)も撮影。そして最初にアロマのマッサージ。そのままヒートマットなるものに包まれるのだけど、陰陽五行というアロママッサージがどんどん肌に浸透してぽっかぽかしてくる。寒がりの私でも芯からポカポカ。

slim2.jpg

 ここまでで40分が経過。ここでいったんシャワーで全身の汗をとり、次に腹や腿のしっかり脂肪がついた部分を燃焼マッサージ。これがまた熱い。気持ちいいマッサージをしながら、エステシャンの説明が入る。
「身体の脂肪もバターのようなものなんです。温めれば溶けます。大きな塊のままでバターを溶かしてもなかなか奥まで溶けないように、これもまず燃焼マッサージで脂肪を小さく分解しておくのですよ」
とのこと。

slim.jpg

 最後のケアはマシーン使用。インナーマッスルにまで届くというシェイプ波が奥の奥まで届き、骨盤を支えている筋肉を鍛えるから骨盤が矯正されるらしい。ここではオマケにスポーツ選手などが愛用してるという「ドクターメドマーの空気圧マッサージ」ってのを足につけてくれるので、腹は強い周波でプルプル、足は太腿までが圧マッサージされている状態。なかなか気持ちいい。これを20分で終了。
 ここで採寸のし直し。体重で0.8キロ減。サイズの合計は最初と比較して14センチ減。これは嘘じゃない。エステシャンも真面目に答えてくれたけど、体重が減るのはヒートマットによる発汗、腿のサイズダウンはむくみが取れるかららしい。普通は腹サイズと体重に顕著に効果が出るそうだが、私は太腿が3センチほど落ちた。向こうが「なんで?」と驚いていた。体重にそんなに変化がなかったのは汗をあまりかかなかったせいらしい。そうなんだ、私は南国インドネシアにいてもめったに汗をかかない。
 だから今日の説明でわかった。「汗をかかない=新陳代謝が悪い=悪いものがどんどん身体に溜まる=太る」ってことだ。毎日2リットルは水を飲めとアドバイスをいただき、私には今後このメニューを続けていける時間も金もないことを説明。担当のお姉さまは
「今日は素敵なお話たくさん聞けて嬉しかったですぅ~♪」
とレギュラー客確保に失敗しながらも笑顔で送り出してくれた。

ところで今日はアチェの津波から3年目。インドネシア各地で追悼式があった。おりしも雨季まっただ中のインドネシアでは、現在豪雨による被害も続出しているから気になる。むこうの有名紙コンパスのニュースから抜粋すると

jawa.jpg

『広域水害、中部ジャワの崖崩れで66人死亡』
今週前半に降り続いた雨で26日午前3時30分、中部ジャワ州カランアニャール県の2カ村で崖崩れが発生。民家11戸、車2台、バイク8台、同村の主産業である多額の観賞用植物が一瞬に土砂に埋もれた。生埋めとなったのはラウ山麓タワンマング村の36人。

jawa2.jpg

『東部ジャワでは橋が流され、十数人が不明』
東部ジャワ州マゲタンでは橋の上から住民20~30人が勢いを増す濁流を見守っていたとき、突然橋が流され全員が濁流に呑まれた。夕方までに無事が確認されたのは4人のみ。マラン県周辺では水害で2万人が避難。中部ジャワ州ソロではソロ川が決壊して2mの冠水、4千世帯が避難。バリでは土砂崩れで2人死亡、中部カリマンタンでは旋風と、全国的な被害。  

 さすがに心配になり、ジョグジャの知人に連絡をしてみた。ジョグジャ市内は降り止むこともあって、ニュースになるような状況ではないらしいので一安心。主のいない我が家で、犬たちが困っていないかそれだけが気になったのだけれど、まずは大丈夫だった。
 今回の被害で亡くなった人々、そして3年前のアチェの津波で亡くなった多くの方々の冥福を祈りたい。

Leave a Comment

オフィシャル・レバランとバリ島爆弾テロ

 インドネシア政府が公式発表した断食明けは今日12日。さっきの日没と同時に、これで本当にインドネシア中のイスラム教徒が断食明けの長期休暇に突入したことになる。昨晩からニュースでは、すでに帰省ラッシュの大通りで、スピードの出しすぎ、よそ見運転などで死者の出るような事故を何件も報道している。
 ところで今朝、バリの旧友N翁からメールがあって思い出した。そうだ、今日10・12はバリ島で大きな爆弾テロのあった日でもある。今年でもう5年になる。バリ島南部、観光地として有名なクタ・ビーチで、路上に止めてあった自動車爆弾が爆発、向かいのディスコなど多くの建物が炎上し、202名の犠牲者を出した。日本人観光客も含まれる。

800px-bali_monument.jpg

(現場に建てられた追悼モニュメント)

 私は当時ジョグジャにいたけれど、その後の浄化儀礼に参加して、その惨状を目の当たりにした。今思えば、あの時見た惨状が生まれて初めて見た爆発の恐ろしさだった。そして2年前の地震の被害、あれが天災の中で一番悲惨なリアル体験だった。

101704_balibombing.jpg

そうか、あの爆弾テロからもう5年もたつんだ・・・。それにしてもインドネシアはテロ、津波、地震と人災天災なんでもアリだ。インドネシアに限らず、なんだかこのごろ世界中でこの3つはよく耳にするようになった気がする。いったいこの地球はこの先どうなるのだろう。
外はまだ、断食明けを祝うイスラム教徒の騒ぐ声と、王宮広場で打ち上げる花火の音で騒々しい。彼らにとっての新年が、テロも汚職もない1年になることを切に祈る。クタの爆弾で犠牲になった多くの人々(外国人ツーリストだけではなく、周辺で働いているインドネシア人も多く亡くなった)のために合掌・・・

Leave a Comment

ブリタルで食いしん坊万歳

 4泊4日のブリタルの旅も終わった。
 今回のPETA生き残りとの作品交換は、11月13日より愛知県美術館で始まる私の個展で発表するものなので、あえてここでは詳しく説明しないことにする。

 いつものことだけれど、知らない土地へ行ったらまずはそこの名物を食べたくなる私としては、今回の旅は収穫が多かった。やっぱり知ってる人と一緒ってのはこういうときにもイイ。同じ名物ってったって、やっぱり美味しい店とそうじゃない店があるわけで、必ず当たりくじをチャハヨが教えてくれるというのは本当にラッキー。

nasitahu1.jpg

 初日の夜に食べたのは「ナシ・タフ」。訳せば豆腐ご飯。屋台で出してるブリタルの名物メニュー。ご飯は半分にしてもらって、その上に小さく切って上げた豆腐と、もやし、そしてせんべい。味付けはインドネシアのケチャップ(日本の甘口ソースに近い)。そこに思い切り辛い緑唐辛子の刻んだものが少しずつ入っているから、なめてると突然パンチをくらう。
 相性がいいのはあったかい紅茶。唐辛子の辛さで痛くなった舌も、甘くてあったかい(熱くないところがミソ)紅茶で回復する。

nasitahu2.jpg

 最初に盛られてる状態ではわかりにくいので、混ぜたところを見せるとこう。
 チャハヨいわく、この手のものは最初にガッと混ぜてしまって味をなじませるのがコツらしい。

 ブリタルの朝にはナシ・プチェル。こいつも名前に「ナシ」と来てるから、つまりはご飯と何かってことだ。ジョグジャにもプチェルはあるけれど、甘くて辛さに欠ける。ブリタルのはチャハヨが自慢するだけあって、いやみのやい程度に唐辛子がきいてて、ジョグジャほど甘ったるくないから朝からすがすがしい気分。

pecel.jpg

 プチェルはきゅうりやもやしなどの野菜をピーナツソースで和えたもの。とってもヘルシー。写真はチャハヨが注文した「彼バージョン」なので、スタンダードな「ナシ・プチェル」にプラスして海老のよせ揚げなんかもつけてる豪華版。プチェルは普通、朝のメニューなので夜になって探すのは難しい。

 私がココナツ系大好きと知ってるチャハヨがススメてくれたのがこのデザート。この白い色、全部ココナツミルク。もうたまらない!

bahan-1.jpg

 中には、黒米の蒸したもの、片栗粉とイモ粉を混ぜてゆでたもの、食パンのちぎったものなど、ま~いってみれば炭水化物ばっかが入っている。でもこの取り合わせ、それぞれの食感が微妙に違っていて、それらが口の中で固めだったり、トロッと溶けたりとバリエーションあって、さらにバックにはココナツミルクのマイルドな香りがあって・・・と、私にはたまらない一品。ダイエットを気にしなければ3皿は楽勝という味。

bahan.jpg

 あまりに美味しいので、屋台の引き車にのってる中身の鍋を見せてもらった。このメニューも朝からはじまるもので、午後以降はなかなか見つけられないという。そして日が暮れて夜になると、また路上に並ぶそうだ。 あ、そうそう名前は「コラッ・ロティ」。

 食巡りで、普段は食べない夕飯もしっかり食べてしまったので、ジョグジャに戻ってからはまたダイエット再開。今年はまったく気にしてなかったけれど、気づけば断食月もあと1週間を残すだけとなり、街は長期休暇を前にそわそわしている。平日だっていうのに、どこもが渋滞。こっちは個展の準備で工具やら買いに行かなくちゃいけないのに、とにかくどこも人が多い。日本の師走、大晦日前の街みたいなものか。
 公的機関は12日から休みに入るらしい。私も一日だけは休みにして、敬虔なイスラム信者の友達夫婦んちで祝日のご馳走をいただくとしよう。今日は食べ物の話で終始。

Leave a Comment

ブリタル観光-PETA跡地とチャンディ-

交換プロジェクト2日目も無事に終了、結果ブリタル周辺に暮らしているPETA(インドネシア郷土義勇軍)の生き残り30人のリストはすべて当たることができた。残念ながら、その中ですでにあの世に逝かれた方が4名いらした。
 思ったよりも早くにプロジェクトが終わり、最後の1日は今回の縁となったPETAの跡地を訪ねることにした。もともとオランダ植民地時代にオランダ政府によって建てられた建物が、そのまま日本軍占領時代に使われたもの。ここが1943年からは、日本軍によって設立されたインドネシア青年による郷土義勇軍の訓練所として機能したのだった。

 今ではこの跡地全体に4つの公立中学校が入り、教室として利用されているのだけれど、今回生き残りのお爺ちゃんたちから聞いたら、歴史的にも重要な場所なので、PETA記念館として使われるべきたとの嘆願書など集めているらしい。

patung.jpg

 かなり広い敷地の入り口には、1945年に義勇軍一同が日本軍に抵抗した歴史的「ブリタルの反乱」を指導した中隊長スプリアディの像が立っている。残念ながら、来年の記念日(2月14日)に向けて、像の修復作業中だったために、囲いの隙間からしか像を拝むことができなかった。

peta.jpg

 今は中学生の教室として使われているこの棟は、当時義勇軍の隊員たちの宿舎だったという。この場所でスプリアディが仲間を結集し、東にある日本軍指導官たちのホテルへ武器を持ってなだれ込んだという説明の碑が立っていた。

penjara.jpg

 少し離れたところには、刑務所もあった。刑務所という言葉が適切かどうかわからない。当時は日本兵が義勇軍の隊員たちの指導に当たっていたので、その中で抵抗するものがいたり、規則に背いた者がいた場合に、ここを使ったという。やさしく言えば「お仕置き場」ということか。このPETA跡地には、当時の建物をそのまんま使っている区域も多く、中学生たちの間では、たくさんの幽霊話もあるという。いかにもいそう、出そうな空気ではある。

 ブリタルはPETAの大きな駐屯地があり、1945年に初めて日本軍に抵抗した反乱が起こったことでも歴史的に有名な場所だ。でも、もう一つこの街を有名にしているのが「初代大統領スカルノの墓」がある場所ということ。彼が幼少を過ごした家も、一般公開されている。
 彼のお墓にお参りした後、街の中心にあるスカルノの実家を訪ねた。若き日に彼が使っていた寝室も見ることができた。客室には古い写真がたくさん飾られていて、中には昭和天皇と一緒にいるシーンもあった。

sukano.jpg

 これは何人目かの妻、あのデビ夫人が妻になりたての頃だろう。当時はキレイだったんだなー・・・。彼女はインドネシアでも知名度が高い。

car.jpg

 大統領だった頃、スカルノが使っていたという自動車も車庫にそのまま残されていた。なにげ~にドアを開けてみたら開いたのでビックリ。でも彼自身は運転はできなかったため、運転手をつけていたらしい(まー当たり前だわな・・・)。

 ブリタル観光局みたいになってきたけれど、最後に訪れたのはブリタルに残るチャンディ(遺跡)。ジャワ島では、ほぼすべてのエリアに渡って、こうしたヒンドゥー教の影響の多いチャンディが残されている。遺跡巡りは私の趣味なのでよく回るのだけれど、このブリタルのプナタラン・チャンディはかなり広い敷地で発見、保存されていて、周囲の環境もまだ田舎なので、と~ってもいい感じだった。
 おそらく沐浴場だったであろう池には、たくさんの魚が泳いでいた。なんでも、この池の魚は神聖で、さらに神通力もあるので、夜になると身体が透け、骨だけが泳いでいるように見えるらしい。日中の暑い時間帯なのに、ここだけひんやりと気持ちのいい空気が流れていて、ふと見るとこんな猿のレリーフまであったりして、ついつい長居をしてしまった。

monyet.jpg

 初めて訪れたブリタルの街、チャハヨとその仲間たちのおかげで、思い切り充実した濃い時間を過ごすことができた。そして心配していた生き残り爺ちゃんたちとの作品交換も想像以上にスムーズに進んだのがなにより。
 夜は彼ら全員を招待して、街の魚料理屋で打ち上げ。皆さんどうもお疲れ様!
 

Leave a Comment

PETA生き残りは30人

 今日から3日間でブリタル周辺に暮らしているPETA(インドネシア郷土義勇軍)生き残り全員と会うつもりなので朝からかなり気合が入っている。今回ブリタルで見つけた宿はプリ・プルダナという新しい宿。まーまーキレイ。老体には温水が必要なので、贅沢してホッとシャワー付きの2階の部屋をとって16万5000ルピアのところ、3泊か4泊するんだからと値切ったら25%OFFにしてくれた。だから12万強ルピア(約1500円)になった。お湯もしっかり熱いのが出るし、ラッキー。

hotel.jpg

 今日からジャワでの交換プロジェクトの開始。気合が入る。
 ブリタル市を選び、日本軍が設立したインドネシア青年による郷土義勇軍の生き残りを巡るというこのプロジェクトは、ジョグジャ在住の私の信頼する友、チャハヨの大きなバックアップで成り立っている。ブリタル出身の彼が、地元にいる仲間を引き込んで、私のプロジェクトを全面的にサポートしてくれることになったのだ。
 映像関係の仕事をする彼は、新聞記者、カメラマンなどの知り合いも多いので、今回は私が動くところに必ずチャハヨ(ドキュメントビデオ担当)、ワワンさん(カメラマン)、そしてブリタル市のWEBサイトを作っている ライターのサイムさんが付き合ってくれた。

cerewet.jpg

 訪問第1号は、郷土義勇軍(Pembela Tanah Air、略してPETA)戦友会の委員長をしているイブノ氏。私がブリタルを訪ねることをチャハヨの仲間が説明し、生き残りの名簿をくれたのが彼。だから私が訪ねてくることも知っていて、この日は朝からむこうの方が私よりもずっと気合を入れてたみたいだ。いきなり軍服で出てこられて、こっちが驚いた。
「昔は、日本とインドネシアはラワン(抵抗)していたが、今はカワン(友)なんだ」
と、ニコニコのイブノ氏、私の交換プロジェクトはそっちのけで、日本人見て興奮してしまい、軍歌は歌うは、私と一緒の写真撮りまくるは、そのテンションにわれわれ全員かなり引き気味。

 そして見せられたのがイブノ氏の日本刀コレクション・・・

katana.jpg

 なんだけど・・・。
 う~~~ん・・・。どう見てもこれ、日本製じゃないです。悪いけど。日本語のような文字が入っているのだけれど、いかにも、外人が日本の文字にあこがれて、真似てみました~って文字。漢字でもカタカナでもない。
 でもイブノ氏が
「ほれほれ、なんて書いてるんだね?」
って真剣に聞いてくるから困った。彼が家宝にしている「日本刀」だと思ってるものを
「あ~、これ、ニセモノですよ、日本語じゃないです」
と言い放ってしまっていいものか・・・。でも私自身、嘘がいやなので、
「これはどう見ても日本語じゃないですね~・・・どんなに古い文字でも、日本語かどうかくらいはわかりますが、私にはこれは読めません」
と答えたら、それでも向こうは
「ふん、あんたみたいな若い世代では、当時の字は読めんのだな」
と馬鹿にする。こうなったら仕方ない、あんたの思うようにしときなさいというしかない。

alataneh.jpg

 でもその後もずっとこの刀と、もう一つ見せられた巻尺のようにして中から刀(のようなもの)が出てくる謎の武器のことが気になり、なんとか真実が知りたいと、ジョグジャの地震で親しくなった自衛隊のおじ様二人にメールを送って聞いてみた。お二人とも、答は
「この写真からすると、どうもニセモノくさいですね」
「日本軍の将校は、軍刀である日本刀を持っていたので、日本刀のような物ならそうと言えるのですが。将校でない兵士たちはライフル銃を持っていて、その先に付ける銃剣と言われる物は持っていましたが、硬い物です」
とのこと。
 イブノ氏が持ってたようなフェンシングの剣みたくクネクネ曲がるものは、当時の日本軍がもってたとは思えない。この件については、今後ももう少し調べてみようと思う。

 ドショッパツから軍歌に記念撮影、わけのわからん日本軍の武器紹介から始まったので、この先が思いやられながらも、もらった名簿をシラミツブシすることに。名簿には96名の生き残りの名が掲載されていたが、よくチェックしたらPETAの生き残りはわずか30名、66名はPETA軍兵の妻だった。さすが女はしぶとい。だって倍だもの、生き残ってる数。
 私は日本軍に直接指導を受け、1945年2月14日には小団長スプリアディの指導のもと、日本軍に対して反乱を起こしたPETAの生き残り爺ちゃんだけにフォーカスして作品を交換してもらうことにした。

 チャハヨの仲間たちがすでに昨晩、この名簿の住所から訪問する順番を決めてくれていたので、時間も有効に使えた。私の訪問を知っていた最初の二人は、ノスタルジックに私に対していろいろ見せたり、歌ったりしたけれど、後の人たちはまったく突然訪問しているので、返って反応が気持ちよかった。恐れていた日本への憎しみを持っている人はまったくいなくて、私の訪問を皆さんとても喜んでくださって感激。
 今日の中で一番のお年寄りは1919年生まれの88歳。うちの爺ちゃんが明治41年1908年生まれだから、そのほぼ10歳下か。それでもまだしゃきしゃき。やっぱり元軍人は姿勢も違う。

oldest.jpg

 出鼻をくじかれはしたものの、後半はスムーズに進み、今日1日で19人のPETA関係者と作品交換ができた。当時の話も聞けて満足。明日はブリタルの街の中を中心に訪問予定。

Leave a Comment

Older Posts »