Archive for September, 2007

ブリタル観光-PETA跡地とチャンディ-

交換プロジェクト2日目も無事に終了、結果ブリタル周辺に暮らしているPETA(インドネシア郷土義勇軍)の生き残り30人のリストはすべて当たることができた。残念ながら、その中ですでにあの世に逝かれた方が4名いらした。
 思ったよりも早くにプロジェクトが終わり、最後の1日は今回の縁となったPETAの跡地を訪ねることにした。もともとオランダ植民地時代にオランダ政府によって建てられた建物が、そのまま日本軍占領時代に使われたもの。ここが1943年からは、日本軍によって設立されたインドネシア青年による郷土義勇軍の訓練所として機能したのだった。

 今ではこの跡地全体に4つの公立中学校が入り、教室として利用されているのだけれど、今回生き残りのお爺ちゃんたちから聞いたら、歴史的にも重要な場所なので、PETA記念館として使われるべきたとの嘆願書など集めているらしい。

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 かなり広い敷地の入り口には、1945年に義勇軍一同が日本軍に抵抗した歴史的「ブリタルの反乱」を指導した中隊長スプリアディの像が立っている。残念ながら、来年の記念日(2月14日)に向けて、像の修復作業中だったために、囲いの隙間からしか像を拝むことができなかった。

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 今は中学生の教室として使われているこの棟は、当時義勇軍の隊員たちの宿舎だったという。この場所でスプリアディが仲間を結集し、東にある日本軍指導官たちのホテルへ武器を持ってなだれ込んだという説明の碑が立っていた。

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 少し離れたところには、刑務所もあった。刑務所という言葉が適切かどうかわからない。当時は日本兵が義勇軍の隊員たちの指導に当たっていたので、その中で抵抗するものがいたり、規則に背いた者がいた場合に、ここを使ったという。やさしく言えば「お仕置き場」ということか。このPETA跡地には、当時の建物をそのまんま使っている区域も多く、中学生たちの間では、たくさんの幽霊話もあるという。いかにもいそう、出そうな空気ではある。

 ブリタルはPETAの大きな駐屯地があり、1945年に初めて日本軍に抵抗した反乱が起こったことでも歴史的に有名な場所だ。でも、もう一つこの街を有名にしているのが「初代大統領スカルノの墓」がある場所ということ。彼が幼少を過ごした家も、一般公開されている。
 彼のお墓にお参りした後、街の中心にあるスカルノの実家を訪ねた。若き日に彼が使っていた寝室も見ることができた。客室には古い写真がたくさん飾られていて、中には昭和天皇と一緒にいるシーンもあった。

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 これは何人目かの妻、あのデビ夫人が妻になりたての頃だろう。当時はキレイだったんだなー・・・。彼女はインドネシアでも知名度が高い。

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 大統領だった頃、スカルノが使っていたという自動車も車庫にそのまま残されていた。なにげ~にドアを開けてみたら開いたのでビックリ。でも彼自身は運転はできなかったため、運転手をつけていたらしい(まー当たり前だわな・・・)。

 ブリタル観光局みたいになってきたけれど、最後に訪れたのはブリタルに残るチャンディ(遺跡)。ジャワ島では、ほぼすべてのエリアに渡って、こうしたヒンドゥー教の影響の多いチャンディが残されている。遺跡巡りは私の趣味なのでよく回るのだけれど、このブリタルのプナタラン・チャンディはかなり広い敷地で発見、保存されていて、周囲の環境もまだ田舎なので、と~ってもいい感じだった。
 おそらく沐浴場だったであろう池には、たくさんの魚が泳いでいた。なんでも、この池の魚は神聖で、さらに神通力もあるので、夜になると身体が透け、骨だけが泳いでいるように見えるらしい。日中の暑い時間帯なのに、ここだけひんやりと気持ちのいい空気が流れていて、ふと見るとこんな猿のレリーフまであったりして、ついつい長居をしてしまった。

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 初めて訪れたブリタルの街、チャハヨとその仲間たちのおかげで、思い切り充実した濃い時間を過ごすことができた。そして心配していた生き残り爺ちゃんたちとの作品交換も想像以上にスムーズに進んだのがなにより。
 夜は彼ら全員を招待して、街の魚料理屋で打ち上げ。皆さんどうもお疲れ様!
 

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PETA生き残りは30人

 今日から3日間でブリタル周辺に暮らしているPETA(インドネシア郷土義勇軍)生き残り全員と会うつもりなので朝からかなり気合が入っている。今回ブリタルで見つけた宿はプリ・プルダナという新しい宿。まーまーキレイ。老体には温水が必要なので、贅沢してホッとシャワー付きの2階の部屋をとって16万5000ルピアのところ、3泊か4泊するんだからと値切ったら25%OFFにしてくれた。だから12万強ルピア(約1500円)になった。お湯もしっかり熱いのが出るし、ラッキー。

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 今日からジャワでの交換プロジェクトの開始。気合が入る。
 ブリタル市を選び、日本軍が設立したインドネシア青年による郷土義勇軍の生き残りを巡るというこのプロジェクトは、ジョグジャ在住の私の信頼する友、チャハヨの大きなバックアップで成り立っている。ブリタル出身の彼が、地元にいる仲間を引き込んで、私のプロジェクトを全面的にサポートしてくれることになったのだ。
 映像関係の仕事をする彼は、新聞記者、カメラマンなどの知り合いも多いので、今回は私が動くところに必ずチャハヨ(ドキュメントビデオ担当)、ワワンさん(カメラマン)、そしてブリタル市のWEBサイトを作っている ライターのサイムさんが付き合ってくれた。

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 訪問第1号は、郷土義勇軍(Pembela Tanah Air、略してPETA)戦友会の委員長をしているイブノ氏。私がブリタルを訪ねることをチャハヨの仲間が説明し、生き残りの名簿をくれたのが彼。だから私が訪ねてくることも知っていて、この日は朝からむこうの方が私よりもずっと気合を入れてたみたいだ。いきなり軍服で出てこられて、こっちが驚いた。
「昔は、日本とインドネシアはラワン(抵抗)していたが、今はカワン(友)なんだ」
と、ニコニコのイブノ氏、私の交換プロジェクトはそっちのけで、日本人見て興奮してしまい、軍歌は歌うは、私と一緒の写真撮りまくるは、そのテンションにわれわれ全員かなり引き気味。

 そして見せられたのがイブノ氏の日本刀コレクション・・・

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 なんだけど・・・。
 う~~~ん・・・。どう見てもこれ、日本製じゃないです。悪いけど。日本語のような文字が入っているのだけれど、いかにも、外人が日本の文字にあこがれて、真似てみました~って文字。漢字でもカタカナでもない。
 でもイブノ氏が
「ほれほれ、なんて書いてるんだね?」
って真剣に聞いてくるから困った。彼が家宝にしている「日本刀」だと思ってるものを
「あ~、これ、ニセモノですよ、日本語じゃないです」
と言い放ってしまっていいものか・・・。でも私自身、嘘がいやなので、
「これはどう見ても日本語じゃないですね~・・・どんなに古い文字でも、日本語かどうかくらいはわかりますが、私にはこれは読めません」
と答えたら、それでも向こうは
「ふん、あんたみたいな若い世代では、当時の字は読めんのだな」
と馬鹿にする。こうなったら仕方ない、あんたの思うようにしときなさいというしかない。

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 でもその後もずっとこの刀と、もう一つ見せられた巻尺のようにして中から刀(のようなもの)が出てくる謎の武器のことが気になり、なんとか真実が知りたいと、ジョグジャの地震で親しくなった自衛隊のおじ様二人にメールを送って聞いてみた。お二人とも、答は
「この写真からすると、どうもニセモノくさいですね」
「日本軍の将校は、軍刀である日本刀を持っていたので、日本刀のような物ならそうと言えるのですが。将校でない兵士たちはライフル銃を持っていて、その先に付ける銃剣と言われる物は持っていましたが、硬い物です」
とのこと。
 イブノ氏が持ってたようなフェンシングの剣みたくクネクネ曲がるものは、当時の日本軍がもってたとは思えない。この件については、今後ももう少し調べてみようと思う。

 ドショッパツから軍歌に記念撮影、わけのわからん日本軍の武器紹介から始まったので、この先が思いやられながらも、もらった名簿をシラミツブシすることに。名簿には96名の生き残りの名が掲載されていたが、よくチェックしたらPETAの生き残りはわずか30名、66名はPETA軍兵の妻だった。さすが女はしぶとい。だって倍だもの、生き残ってる数。
 私は日本軍に直接指導を受け、1945年2月14日には小団長スプリアディの指導のもと、日本軍に対して反乱を起こしたPETAの生き残り爺ちゃんだけにフォーカスして作品を交換してもらうことにした。

 チャハヨの仲間たちがすでに昨晩、この名簿の住所から訪問する順番を決めてくれていたので、時間も有効に使えた。私の訪問を知っていた最初の二人は、ノスタルジックに私に対していろいろ見せたり、歌ったりしたけれど、後の人たちはまったく突然訪問しているので、返って反応が気持ちよかった。恐れていた日本への憎しみを持っている人はまったくいなくて、私の訪問を皆さんとても喜んでくださって感激。
 今日の中で一番のお年寄りは1919年生まれの88歳。うちの爺ちゃんが明治41年1908年生まれだから、そのほぼ10歳下か。それでもまだしゃきしゃき。やっぱり元軍人は姿勢も違う。

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 出鼻をくじかれはしたものの、後半はスムーズに進み、今日1日で19人のPETA関係者と作品交換ができた。当時の話も聞けて満足。明日はブリタルの街の中を中心に訪問予定。

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ブリタル、交換の旅

1942年3月4日、インドネシアを占領していたオランダ軍はバタビア(現ジャカルタ)を撤退した。そして5日にはオランダ領東インドの首都は日本の占領軍の手に落ちたのだった。ここから3年半、インドネシアの日本占領下時代が始まる。
 日本軍占領下、インドネシアでは「セイネンダン(青年団)」「ケイボウダン(警防団)」などの組織が編成されたが、特別な目的で生み出されたのが「PETA(ペタ)」、郷土防衛義勇軍だった。東ジャワ、ブリタルにも当時大きなPETA組織があり、1945年2月14日に日本軍に抵抗して反乱を起こしたことは、今も皆が歴史で学んでいる。

 11月愛知県美術館で始まる私の個展『交換プロジェクト’07~アジアの記憶~』では、私の小品をフィリピン人1000人と交換したプロジェクトと、インドネシアでのプロジェクト2つを展示する。今回ブリタルを訪れたのは、この交換プロジェクトのためだ。運良くこの街出身の友、チャハヨがいたので、彼と彼の地元の友達のおかげで、リサーチもスムーズに進んだ。

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 朝5時、チャハヨ宅で集合2人でブリタルへ出発。普段めったにこんな時間に起きたことがないので、久しぶりにサンライズも見れた。

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東ジャワへ向かう道の途中にはチーク林があって、たくさんのチーク材が並んでいた。里帰りで長距離運転には慣れた彼なので、6時間の道のり、一度も休憩せずに到着。

 まずはチャハヨ馴染みの屋台で遅いお昼。ジョグジャの料理は全体に甘くて私はそんなに好きではないが、東へ来ると唐辛子が効いてて甘さも控えめ、ココナツミルク使用のメニューが多くて私の好み。この屋台には筍のココナツ漬けがあったので早速試す。ムチャ美味い。

 チャハヨおすすめはカタツムリ。ブリタルの名物らしい。家を追い出されたカタツムリを揚げてスナックにしたもの。

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 これがパッケージ。
 でも、私は結構食わず嫌いなので、カタツムリと聞いたら食べられなかった。チャハヨいわく鶏の皮みたいな感じらしい。わからんでもないけれど、試したくはない。

 今回の私のプロジェクトに協力してくれるといったチャハヨの高校時代の友達が、夜になって集まってくれた。フィリピン、バギオでやった交換プロジェクトのビデオを見せて、いったい私が何をしにきたのかを説明。来る前にメールでやりとりして事情を知っている一人が、すでにPETAの生き残りリストを入手してくれているので、明日の朝からは爺ちゃん巡りが始まる。
 長距離の疲れもあるので、今日のところはホテルに戻ってとっとと寝ることにする。

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ジャワの交換プロジェクト:ブリタルの反乱

最近はジョグジャでブリタル(Blitar)市のことを予習している。東ジャワの小さな町ブリタルは初代大統領スカルノの出身地。そして「独立の父」と称された彼の立派な墓もこのブリタルにある。

 インドネシアの子供たちはみんな「ブリタル」を知っている。なぜならブリタルで起きた「ペタ(PETA)の反乱」は歴史の教科書に必ず出てくるからだ。日本のインドネシア占領末期(1945)、インドネシア人防衛義勇軍(Pembela Tanah Air、略してペタ)のブリタル駐屯部隊が、日本軍に反乱したのだった。日本軍は1945年8月の終戦までペタを制御下においてきたが、唯一の例外が「ブリタルの反乱」だった。反乱の動機は食事や待遇への不満で、政治的理由ではないらしい。けれどもインドネシアの歴史で、これは「独立前史」として高く評価されている出来事。反乱の首謀者スプリアディは生死不明のままインドネシア共和国初代のインドネシア軍司令官に指名される名誉を得た。

PETAとはいったい何か?
戦中、戦線拡大に伴って日本軍は兵員不足を「HEIHO(兵補)」と呼ばれるインドネシア人で補った。その次に計画されたのがけれジャワ人による「PETA=郷土防衛義勇軍」の設立。つまり、もとは日本軍の兵員の穴埋めだったのだけれど、自らの軍隊を持つことはジャワ人の願いでもあったため、たくさんのジャワ青年が志願してできたのがPETA。

PETA発足によって日本軍のもっていた教育学校が「ボゴール義勇軍練成隊」へと発展し、卒業生が故郷に帰って大団を編成するようになった。訓練には日本軍人があたり、訓練を受けたジャワ人幹部が一般募集の兵士の訓練に当たった。

 ジャワ島で66大団、バリ島で3個大団が編成され、スマトラ島にもスマトラ島民による軍が設立され、“スマトラ・ギユーグン(義勇軍)”と名づけられた。日本の敗戦後、オランダの復帰とともに勢いを増してきた独立運動を指導して、新生インドネシア共和国軍の創設に参加したのがPETAのメンバー。PETA出身のスディルマン将軍は共和国軍を率いて独立戦争を戦った。第2代大統領スハルトも、PETA中団長だった。こんな歴史の流れを見ると、もとは日本軍の勝手で結成されたPETAは、結果的には後のインドネシア国軍幹部の人材養成機関としての役割を果たしたことになる。

 11月に愛知県美術館で開催される私の個展『廣田 緑:交換プロジェクト’07 ~アジアの記憶~』では、今年5月にフィリピンはバギオで実行した1000人との交換プロジェクトと、このブリタルでの交換プロジェクト、二つの交換プロジェクトの成果を展示する予定。
 バギオでの交換を思い立たせたのは、マニラの博物館で見た「デス・マーチ」だった。日本軍が行った非道な行為としてフィリピンの人たちの記憶に刻まれている。そして今度はインドネシアで、日本軍と関わりの深い場所で、関わった人たちと作品交換をしたいと思ってリサーチをしていた私は、親しい友人のチャハヨに相談してみた。
「ねぇねぇ、ジャワ島内で、日本軍と縁深い場所ってどこだろうねぇ?」
「そんなの、うちの村だよ。なんたってPETAの大きな部隊があったんだから」
 これがブリタルを知るきっかけだった。

 ジョグジャの友チャハヨ。昔からこのブログを読んでくださっている方には「東」として知られる、中部ジャワ沖地震の救援活動「こどもプロジェクト」の立役者だ。その後も私たちは事あればコンタクトをとりあっている。今回の個展の準備では、フィリピンの映画監督の重鎮キドラ・タヒミックが自ら撮影してくれた私の交換プロジェクトのビデオに、日本語字幕をつけることも彼が手伝ってくれた。
 そして今度はジャワでの交換プロジェクトの場所に、彼の出身地を選んだ。これも何かの縁だろう。ひょっとして、このプロジェクトのために、もともと地震を介して彼と知り合っていたんじゃないかと思うようなグッドタイミングだ。

 自分の村の過去をテーマにして、私がブリタルへ行くことを、チャハヨもとても喜んでくれ、7時間の道のりを運転して送ってくれることになった。というか、全スケジュールを彼と、現地にいる彼の友人たちがサポートしてくれることになった。むちゃ頼もしい。
 すでに今、現地の友達がPETAの生き残り爺様たちの名簿を入手し、私が訪ねられるようにスケジュール調整をしてくれているというからスゴイ。26日の早朝に出発して、4日間で100個のヒトと交換することを目標にガンバる。

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フォギーの誕生日イン・バリ

 インドネシアの国営航空GARUDA。以前はちゃんと名古屋の直行便があったのに、テロ、鶏インフルエンザなどが続き、さらにもってる飛行機のいくつかが要修理となった。今では帰国のたびに関空か成田かを選択しなければならないのが少々つらい。かといってJALを使えるほどの余裕もないのが悲しい。
 今回の一時帰国は関空イン、関空アウトを選んだ。名古屋を7時ちょっと前の新幹線に乗り、新大阪でJRはるかに乗り換えて9時3分に関空に着く。飛行機は11時出発なのでちょうど2時間前にチェックインできる計算。
 3連休の最後の日だっていうのに、学生やハネムーナーでほぼ満席。トランクの出てくるのを待って空港の外へ出たらバリの娘エリパニ、彼女のホントの母親、エリパニのいとこにその子供に・・・と女子供総勢7人に迎えられた。私を入れて8人、さらにでかいトランクが2つ。これでちっちゃなジムニーにきゅんきゅん詰まってUBUDへ。

 空港で私を迎える前に、彼らはジンバラン海岸で魚を買ってたらしく、狭い車内は生臭くてたまらなかった。とはいえ、エリパニの母ムプの手にかかった魚料理は美味い。バリの家族のもとで私が一番ほっとするのは、ムプの手料理を食べるときなのだ。思わず食が進むちょうどいい辛さがたまらない。

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 ホッとする間もなく、同じ町内にあるロンボク島出身アマッド親父の家へ。彼は日本でも流行の「アタ小物」を扱う店を経営している。私は小学校の同級生、樋口君の仕事のお手伝いで、彼が輸入するアタ小物のクオリティチェックと発送をすることになっているのだ。この前日本へ帰る前に発注したゴミ箱、ティッシュ入れなど7品目のチェックをして、アマッド親父とちょっと話して今日は終わり。明日にはちゃんと梱包する約束をして別れた。

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 翌20日は、はからずもフォギーの誕生日。フォギーはエリパニの弟、つまり私が10年来世話になっているUBUDの木彫り師サナ兄貴の息子。「誕生日」といっても西暦の誕生日ではなく、バリ人が使っている210日で1年のサカ暦での誕生日「オトン」のことだ。そういえば前もバリへ戻ってきたとき、ぴったりのタイミングで娘エリパニのオトンに重なって、誕生ケーキを買ってあげたなぁ。

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 今日もフォギーに聞いてみた。
「誕生ケーキと、ベトゥトゥとどっちがいい?」
ベトゥトゥというのは有名なバリ郷土料理の一つで、鶏やアヒルの内臓を取り、中に香葉を詰め、バナナの葉で包んで約1日炙り焼きしたもの。私は誕生祝を買ってやるという名目で、実は自分の食べたいものを注文したいだけ。
 フォギーがベトゥトゥを選んだので、さっそく町内で有名なベトゥトゥ焼き屋にサナ兄貴が注文に行ってくれた。出来立てのベトゥトゥはこんな感じ。見た目はそんなに美味しそうに見えないかもしれないけれど、香辛料がほどよく効いてて、ジューシーな脂と混じってたまらない香りと歯ざわり。

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 これは私が昔、バリの男性舞踊「バリス」を習っていたときに作った「マイかぶりもの」。真剣に学んで、膝を痛めたり、寺院祭で奉納として舞ったのはもう10年も前のこと。よる年波には勝てず、今では絶対にバリスなど踊れない。多分貧血か酸素不足でブッ倒れるだろう。そこでこれを娘のエリパニにプレゼントして、彼女がバリ人の踊り子さんか舞踊グループへ売りこみに行き、得たお金は彼女の卒業式の費用(レンタル衣装、卒論の製本など、結構金がかかる)に当てさせることにしたのだ。最後にもう一度かぶってみた。
もともと裕福でもないくせに、どうしてもこの勉強熱心で賢い娘を学校へ行かせたくて、私でも支払える学費の1年制の学校へ入れてからもう1年。ついに彼女も卒業する。私にはどうしても式に出てほしいと言ってたけれど、日本での個展に重なってしまって出席できないのが私もとっても残念だ。

バリの家族のもとを訪ねるたびに、ここの父ちゃんから
「なんでミドリはもっとゆっくりして行かんのだ!」
と怒られる。そうだなぁ、今度はもっとゆっくり過ごしたいな~・・・と思いながら、2泊2日のバリを発ち3週間留守にしてたジョグジャへ・・・

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個展準備とスマトラの地震

 今年11月13日から始まる愛知県美術館での個展。これには夏にフィリピン・バギオで行ったプロジェクトと、新たにインドネシア・ブリタール村で予定しているプロジェクト、この2つを発表する。バギオの展覧会で発表した作品は、そのままバギオ在住の友人マリコさんに預けていたのだけれど、ようやくこのたび、愛知県美術館お抱えの運送会社経由で名古屋まで戻ってきた。
  私がジョグジャで制作した1000対のヒト(樹脂製)を、フィリピンへもっていって1000人のフィリピン人と交換したプロジェクトが昨年のフィリピンでの作品となった。その交換品と、交換してくれた人の写真を展示した。バギオでの個展会期中ずっと滞在ができなかったので、個展終了後はマリコさんが保管してくれたというわけ。

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東京から戻った11日の夕方取りに行き、3ヶ月ぶりの対面。
 1日かけて1000個の交換物をチェック、展示のときにわかりやすいよう、10、20、30単位で交換物を小さなポリ袋に収納。こうして見ていると、フィリピンで会った人々と何を交換したのかが思い出されて楽しい。

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 このマリコさん、フルネームは反町マリコさん。今「反町」といえば?
 そう、何をかくそう「反町JAPAN」のあの反町監督の実のお姉様なのだ。彼女は今回私が開いたバギオでの個展をすべてコーディネートしてくださった方。お宅にお邪魔したときに見つけた「反町フィギュア」で事情を知った。そのとき、私はまったく「反町JAPAN」なるものを知らなかったのだけれど、日本の友人に話したら「どえらい」有名な人だとわかって驚いた。

 とまれ、そんな事情から今晩は「反町JAPAN」の試合を観戦していたわけ。
 そしたらいきなりの速報、インドネシアで地震。すぐにジョグジャとバリの知人に電話連絡して無事を確認。私の留守中にまた大きな地震がきて、家が崩壊してたらたまったもんじゃない。主人のいない2匹の犬がかわいそうだ。

 今日の現地の新聞にあった記事から。
『リヒター7.9度、ベンクル-パダン大型地震
12日18時10分、スマトラ島南部ベンクル市の南西海上159キロ、南緯4.67度、東経101.13度、地下10キロでリヒター震度7.9度の地震が発生。続いて19時21分に5.7度、20時2分にも6.1度、20時53分に5.0度の余震が発生。
ベンクル市では民家数十戸、州庁、公立病院が、パダンでは自動車のショールーム、民家数十戸が破損。倒壊家屋の下敷で死者3人。北スマトラ州では全州が停電となった。全体の被害状況はまだ把握されていない』

 どうやらこれにはムンタウェイにある断層に問題があるようだ。
『ムンタウェイ断層の危機、今後も注意
ジャンビ~パダンに渡って被害を起こした地震の翌13日にも6時49分に7.7度の、8時26分に6.7度の地震が発生した。昨日からの地震はいずれも、スマトラ島-パプアのインド洋側を走るインド豪州プレートとユーラシア・プレートがせめぎ合う線上にあり、特にムンタウェイ諸島北部のムンタウェイ断層の南端に発生したもの。
この断層では1979年にリヒター8.3度、1833年に8.9度、2000年7.9度の大地震があった。今回が最大か不明だが、今後8度以上の地震が来て津波が南ランプン、バンテン、ジャカルタに及ぶ可能性は十分にあると専門家』

 17日には関空からバリを経由してジョグジャに戻る。これ以上大きな地震がなければいいのだけれど。

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神田食巡り

 東京滞在最後の今日は、先日横須賀ドライブに連れて行ってくれた大学の同級生I君との打ち合わせ。一級建築士の彼は、横浜で20年近く一人で仕事している。テーマパーク、公団、ゴルフ場、老人看護関係など、幅広い仕事をしている彼にとって、個人の住宅はそんなにメインの仕事ではないらしい。
 私が今年、思い切って父の残してくれたお金を使って、実家のスタジオを改装しようと思い立った時から、設計は自分の友達に頼む!と決めていた。最初に浮かんだのは、もちろんI君だった。

 ところが彼は困った人で、いい人なんだけど頑固。設計したものに対してお金をとってくれないのだ。これにはまいる。仕方がないので、接待としてちょっと美味しい料理をおごったり、カラオケに一緒に行くくらいしか、お礼の方法がない。
 9月30日完成予定のスタジオの細かい指示について、今日は設計をした彼に相談することになっていた。彼は忙しいスケジュールの中、私の一時帰国にあわせて名古屋の工事現場(私の実家)にもちゃんと工事の進み具合を見に来てくれている。

 普段は時間がもったいないといって、「はな丸うどん」か「マックバーガー」しか食べてないI君に私は言っておいた。
「あのね~、40にもなったら、男一人で毎日マックじゃ寂しいでしょ。たまにはちゃんとした老舗の美味いもの食べなさい」
 今日の打ち合わせランチは私のおごり、そしてI君の今日の仕事場は神田。少しは彼も予習しておいてくれたようで、淡路町にある蕎麦の老舗に連れて行ってくれた。ここへ向かう途中にはあの松田優作が主演した『探偵物語』のロケ地もあって感動した。

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 「神田やぶそば」、幕末の名舗を明治13年に譲り受けた堀田七兵衛が屋号を「藪蕎麦」として営業を始めた。一度も入ったことがなかったI君はかなり高いお店かと心配していたけれど、そばの単品は1,000円もしない。今日は私のお礼ランチなので、

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蕎麦すしとか、海老のかき揚げなども頼んだ。
みんな美味い!

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 私は冷やしなめこそばを頼んだ。

 この周辺は神田食味新道と呼ばれて戦争で被爆しないで残った城下町の老舗がいくつか残っている。せっかくなのでもう一軒ハシゴ。甘味処の「竹むら」は昭和5年創業、北海道小豆を原料とした自家製餡でつくる汁粉が一番人気の店。
 I君に氷しるこを頼み、私はこの夏一度でいいから食べたかった宇治氷を注文。ともに小ぶりなのだけれど、味は濃い!宇治の濃さには大感動。私もついに「量より質」で食を楽しむ年齢になったのか・・・

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 定宿のOさん宅には、ここの名物揚げ饅頭を買ってみた。帰ってすぐにまだあたたかい饅頭を一つ。こちらも上品な餡がとっても美味しい一品だった。

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横須賀美術館と葉山牛コロッケ

 帰国したらほぼ必ず東京へ行く。大学時代の親しい同級生がほとんど東京で仕事していることもあるし、見ておきたい展覧会が東京周辺で多いということもある。少し前から気になっていた横須賀市立美術館(今年4月開館)へ、まだギリギリ夏の終わらない今、ここを見ておきたいと思っていた。そこで横浜在住の建築家の知人、I君を誘ってみたら、彼もまだ見てないそうでOKが出た。 朝一番の新幹線で名古屋から新横浜、彼の暮らす藤が丘の駅へ。ここで彼の車に便乗して早速横須賀へ。

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 I君の仕事関係の土地測量をササッと手伝った後、16号で観音崎へ向かう。天気がいいこともあって、なんだか日本じゃないような風景。たぶん私はこの方面へ来たことは今まで一度もないんじゃないだろうか。

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 観音崎のちょっと手前に開けた公園内に横須賀美術館が見えてくる。ガラスいっぱいの気持ちいい建物。

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美術館から海を見るとこんな感じ。

横浜在住20年にもなるのに、I君もこの周辺はそんなに走ったことがないというので、甘えついでにもう一つ行きたい場所を言ってみた。神奈川県立美術館の葉山分館。
「そういえば、葉山っていえば葉山牛だよ。葉山牛のコロッケとかさ、ソフトクリームとかさ・・・」
とI君、行きたかった美術館よりもそっちが気になる!

 残念なことに葉山分館では展覧会の入れ替え期間にあたったため、館内を見ることはできなかったけれど、台風後の波がよかったのか、目の前の海ではたくさんのサーファーが波に乗っていた。それよりも葉山ソフト!ソフト!

 がしかし、I君はその情報をTVで見ただけで、場所は知らないという。こういうとき、自力でなんとか探したいと思う性格は私も彼と似ている。国道134号を走っていると、自衛隊の駐屯地が出てきた。あまりに暑いので近くのコンビニに停めて水を買うと、中には水兵さんのようなかっこの自衛隊員が数人いて駐屯地の空気たっぷり。

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 ここから先へ行ってもソフトはなさそうだ・・・と両者意見が一致、また葉山御用邸方面へ引き返したとたんに交通渋滞。もう出るに出られずたらたら走っていたら、渋滞の原因がわかった。これこれお祭りだったんだ。

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 バリでは火葬祭でも、寺院祭でも、道路がふさがれるなんてのは当たり前だけど、日本でもこんな場所があったなんてちょっと嬉しい。

 結局、I君のいう葉山コロッケも葉山ソフトも、今日は試すことができなかった。話だけ聞いて試すことができないなんて、かなり悔しい。このエリア、絶対にまた来るぞ!そうそう、もう一つ、ドライブ中に見ていた地図で見つけた猿島。戦時中の防空壕などがそのまま残っているという。島の名が名だけに、私としては絶対行きたい。次回は必ず!
 渋滞はその後も続き、朝が早かった私はもうお眠。いつも一人でどこまでも運転して出かけるI君はどこまで走っても疲れを知らないので、私は平気でガーガー寝始めた。彼の最寄り駅、藤が丘駅に着いたのはもう午後9時を過ぎていた。ここから私は東京の定宿、渋谷へ。
 考えてみたら、こんなドライブ気分を味わったのは久しぶり。運転手に気もつかわず寝まくっても何もいわずにつきあってくれたI君よ、どうもお疲れ様。

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古本売ってミュージアム

 今回の帰国は、現在リノベーション中の実家の仕事場チェックと、年末に名古屋で開催される個展の準備が目的。9月末にスタジオ改装が終わる予定なので、今まで使っていた小さな仕事場に収められている本などを今回整理することにした。
 ずっと昔からの美術館の図録や、小さな頃から捨てられないでとってある文庫本、単行本などなどは思い切って処分。中古本を扱っているBOOK OFFに電話して、回収にきてもらうことにした。名古屋の支店では、中古本の他に未使用の日用品まで扱っているというので、母と一緒に母屋の押入れ奥深くにしまってある引き出物などのカップや皿を出してきた。

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 こうしてBOOK OFFの兄ちゃんが来るまでに、本約70冊と食器を玄関に山積み。丁寧に1品1品確認すること1時間強、兄ちゃんの判断により、準備した品物の約半分が受け取り拒否。聞けば銀製品はNG、本でもあまりに古いものや、明らかに売れない路線はNGだという。
 結局食器で最高値はノリタケの皿1点300円、本もほとんど読んでいない陶芸関係の資料が300円だった。安いものでは30円という評価もあったりして、合計2,940円なり。値段はともかく、いらないものがまだ誰かに使ってもらえる可能性があって、さらに私にはお小遣いが入ったんだからよしとしよう。

 午後からは愛知県美術館へ向かった。
今日は私の個展『交換プロジェクト’07 ~アジアの記憶~』の細かい打ち合わせのために、担当学芸員の高橋さんとミーティング。ちょうど美術館では明日から一般公開の『サイクルとリサイクル』展の開会式。この展覧会には芸大の先輩、渡辺英司さんが出品しているので、まずは展覧会を見せてもらった。この会場は愛知県美術館のメイン展覧会が開催される空間だ。

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(写真は渡辺英司さんの作品『蝶瞰図』)

 そして今度11月に私の個展が予定されているのは、このメイン会場からつながっている所蔵作品展展示室6という場所。自分の作品設置のアイデアをつめるべく、しっかり会場の空気をチェックしてきた。この写真は以前撮影したものだけれど、今日はこの展示室6で、私の大好きな彫刻家、舟越桂さんの個展が開催されていた。ついにこの展覧会の後が私の個展となる、そう思うとワクワクとビクビクが半々の気分。

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 明日から始まる『サイクルとリサイクル』展の会期中、私の個展の案内も来館者に渡すという高橋さんのアイデアで、私が案内用チラシのデザインをすることになった。会期が近づけば、こうした案内とは別に、カラーの案内状やカタログの準備も始まる。
 皆さんにもお知らせしたおきたいので、チラシデザインの一部をここで公表。

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 今度の個展ではフィリピン、バギオで今年夏に発表した作品に加え、インドネシアでのプロジェクトも合わせて発表する予定。チラシには担当学芸員の高橋さんから簡単な私の紹介も入っている。
「廣田緑は愛知県立芸術大学卒業後、名古屋市や愛知県の海外派遣研修をきっかけに、長くインドネシアに在住し制作活動を続けています。同地域の風土的特性を制作に生かしながら、近年は単なる造形表現のみにとどまらず、他者との交流を制作に結びつけています。今回はフィリピンとインドネシアで行なったプロジェクトを中心にご紹介します。」

 会期中、2007年11月23日(金・祝)には作家本人によるレクチャーとギャラリー・トークもあり、予定は以下のとおり。 
16:00~17:00 愛知芸術文化センター12階 アートスペースE・F
17:00~18:00 愛知芸術文化センター10階 美術館所蔵作品展 展示室6
 こんなふうに日程が確定してくると、じわじわ実感がわいてくる。早くインドネシアに戻って、最新のプロジェクトにとりこみたいものだ。

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